川島町議会 2022-09-15 09月15日-06号
強烈な熱線、猛烈な爆風、膨大な放射線を放出し、爆心地を中心とした広範囲を一瞬のうちに襲いました。爆心地の地表の表面温度は3,000度から4,000度になり、猛烈な熱線によって多くの人々が一瞬で亡くなりました。爆風は秒速160メートル以上で、分厚いコンクール造りの建物以外は全て破壊されました。 放射線は人の体に入り、いろいろな細胞を壊します。
強烈な熱線、猛烈な爆風、膨大な放射線を放出し、爆心地を中心とした広範囲を一瞬のうちに襲いました。爆心地の地表の表面温度は3,000度から4,000度になり、猛烈な熱線によって多くの人々が一瞬で亡くなりました。爆風は秒速160メートル以上で、分厚いコンクール造りの建物以外は全て破壊されました。 放射線は人の体に入り、いろいろな細胞を壊します。
爆心地から160キロほど離れた地点で操業をしていた日本のマグロ漁船第五福竜丸は、いわゆる死の灰を浴びて被爆し、大きな社会問題となりました。さらに、現地の島民は、被爆をしても補償や治療を受けられず、長期にわたって置き去りにされてきました。核実験により被爆した人々は、世界に多く存在しているのです。
ミサイル攻撃がされ、ミサイルが爆発した際、爆心地の付近でなくても、高温の爆風により窓ガラスが割れて、やけどを負うこととなり、そのことから体を守らなければならないと聞きます。そのこともあり、今後さらに市としてシェルター施設の整備や地下室設置の奨励などの対応は考えられないか、見解を伺います。 次に、大きな2番、情報提供について、(1)、情報格差に対する対応について。
現地に行くことができない今、そこのプレートに1945年8月6日、朝8時15分というふうに書かれて、そのシチュエーションというか、そういうのも書かれていて、この木は被爆したそこの爆心地から何メートル離れたところの木から芽生えた木です、その木を植樹、大切に育ててくださいねということが書いてあります。
11月23日、ローマ教皇が来日し、爆心地から世界へ向けて「核兵器廃絶」を発信しました。改めて非核の願いを込め、我が市での現在ありますが、吉川平和都市宣言に「非核」を加えて「吉川市非核・平和都市宣言」とすることを提案したいと思います。ご見解をお願いいたします。 また、11月全国首長9条の会が発足いたしました。吉川の市長も大変平和のこういう取り組みについては力を入れていただいております。
被爆樹木アオギリ、いわゆるアオギリは、昭和20年8月6日の広島への原爆投下の際、爆心地から1.3キロメートルの距離にあります旧広島逓信局の中庭で被爆しました。爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼けてえぐられたにもかかわらず、翌年には青々とした芽を吹き返し、こうしたことから、以来、市民に生きる勇気と希望を与え続け、平和のシンボルとして知られているところでございます。
参考までに、被爆アオギリ二世について説明いたしますと、被爆アオギリ二世とは、爆心地から北東1.3キロメートルにある旧広島逓信局の中庭で被爆した被爆アオギリは、爆心地側の幹半分が熱線と爆風により焼けてえぐられましたが、焦土の中で青々と芽を吹き返し、被爆者に生きる希望を与えました。
疎開先にいましたが、数日後、高い放射線量が残る爆心地の周りを祖母と歩きました。いわゆる乳児被爆です。高校の授業で初めて憲法を学びました。国はもう戦争しないと言っているよ、うれしさの余り帰宅してすぐに母に報告しました。このころ、爆心地近くで被爆した家族が後遺症に苦しんでいたんです。9条があればこんな悲劇はもう起こらない。心の底から喜びました。
引率された校長先生も、全員で爆心地に行って空を見上げた。原爆が投下されたその当時のことを全員で考えてみたということを言われていました。その場所でしか感じ得ない何かがあったのだと思います。そこで、坂戸市でも川越市や鶴ヶ島市同様、平和都市宣言を行っている自治体として広島平和記念式典に児童生徒を派遣する考えがないかについて伺います。 ○石井寛議長 石田総務部長、答弁。
1999年6月に長崎の爆心地1.3キロで被爆した東京在住の東数男さんが提訴した裁判で、東京地裁、東京高裁それぞれで原告が勝訴し、終結しております。
この平和の木は、昭和20年8月6日に、広島市の爆心地から1.3キロメートルのところで被爆したものの、焦土の中で芽を吹き返し、現在も生き続ける被爆アオギリ2世で、核兵器廃絶と世界の恒久平和の実現を訴える象徴として広島市から贈られたものであります。 次の節目は35周年です。この川口市から平和を発信する絶好の機会であります。更なる取り組みが期待されます。
広島の被爆樹木アオギリの二世は、昭和20年8月6日の広島の原爆投下の際に、爆心地から約1,300メートルの距離にある旧広島逓信局の中庭で被爆したアオギリの二世でございます。焦土の中、被爆の惨禍に遭いながらも焼け焦げた幹から再び目を吹き返し、市民に生きる勇気と希望を与えたと言われております。
史上初の人類に対する核兵器が広島県と長崎県に使われた惨禍から71年、原爆を投下した核超大国の現職大統領が、爆心地の公園に足を運び、被爆者らを前に核兵器なき世界を追求すると演説したことは歴史的な第一歩であります。 大統領は、大統領就任直後の2009年4月にもプラハで核なき世界の実現を訴えました。
それから、広島市長からいただいたアオギリと長崎市長からいただいたクスノキ、これらは被爆の爆心地から近いところにあった木でありますが、幸いにして生き残り、大きく育って、今花が咲き、実がなって、その実を広島・長崎の皆さんが育てております。実生苗にして育てておりまして、お願いをいたしましたら頂戴ができましたので、記念植樹もさせていただいたということでございます。
この制度は、被爆者の病気や障害が原爆による放射線に起因し、医療を必要とすると厚生労働大臣が認定した場合、その病気の医療費全額を国が負担するとともに、医療特別手当を支給するものですが、その認定に当たっては爆心地から被爆地点までの距離や病気の種類などに厳しい基準が設けられてきました。 例えば、がんの場合で爆心地から約3.5キロメートル以内などの厳しい基準となっています。
長崎市は谷が3つありまして、爆心地にあった谷のもう一つ隣の谷で、しかも距離は3.2kmぐらいありましたので、大きなけがをしないで今日まで生き延びることができました。ただ、爆心地近くに親族が2世帯おりましたので、その確認のために3日後に爆心地帯を歩き回ったという体験があります。その中でおばは3日後に亡くなり、私どもの手で野原でだびに付すという体験をいたしました。
内容は、修学旅行生119人が長崎市を訪れ、爆心地周辺の被爆遺構を見聞、その案内中に数人の生徒が語り部、守口貢さん、77歳に「死に損ないのくそじじい」と叫んだということで、私自身も戦後69年たち、戦争の悲惨が分からない社会の雰囲気の中で若者が育っているのではと思ったのです。 日本は世界の中で唯一の被爆国、さきの大戦で300万人以上の人々が尊い命を失ったのです。
私も8月9日、長崎市に行き、爆心地を歩き、原爆資料館を見学いたしました。来日していたアメリカ人映画監督のオリバー・ストーン氏の話を聞く機会もございました。夏の被爆地を訪ねますと、灼熱の中、原爆によって奪われた多くの命、その後の放射能によって苦しめられた人たちの思いを受け継ぎ、核兵器のない世界へ向けて進んでいかなくてはならないという思いを強くいたします。 そこで、まず市長に伺います。
当時、12歳であった森田氏が、昭和20年8月6日に爆心地から約2kmの地点で被爆したときの様子や、一面焼け野原になった広島市の状況などが生々しく語られました。 アンケートを実施したところ、多くの方が大変よかったとの感想を持たれました。中学生の方は、教科書では伝わらなかった原爆の怖さや悲惨さなどを実際に体験した方から直接聞けたことがとてもよかったとのことでした。
爆心地から西へ500m離れた同小学校では、疎開もせずに学習をしていた1,400人もの教員、児童のとうとい命が失われました。当時のままの壁面と黒く焦げた壁材など生々しく残る痕跡は、あの日の惨状を無言で訴えています。 城山小学校被爆校舎は、地元被爆者でつくる平和発信協議会が年間3万人を超える修学旅行生などの見学の案内に当たっております。